三沢基地航空祭を初めて見た

三沢航空祭を初めて見た

アイボウは平和委員会の役員歴が長くて、もう飽きて、全然行きたがらないし、そもそも、毎年この時期は自転車大会とかぶる。1度くらいは基地の中を見たいと思いながら、もう10年くらい経ったのではないだろうか。アイボウの出張と、たまたま空いた日程で、見ることが叶った。
一緒に行ったKさんと、三沢駅に降りるや、のっけから反対方向に歩き出したのを皮切りに、歩きに歩いた半日だった。

米軍の、これ見よがしな自慢傲慢無神経航空ショーを見て、何がおもしろいのかと言われそうだが、1度は見たかった。

以下、実況中継
これはショーなのだ、花火と同じだ、軍事行動じゃないのだ、あんなけむ出して飛んでたらすぐ落とされるじゃん、そんなの当たり前だ、パイロットよく気絶しないな、垂直に飛んだぞ、すごい人だな、あの行列、絶対並びたくないな、いや、ビールのためなら並んでいいよ、一体ミサイルに危機感持ってるのか持ってないのかどっちなんだ、みんな何を考えているのか、我々は何を考えているんだ、我々はいいんだ、はあ?基地広いなあ、こんな広い場所青森にあったかなあ、なんだオスプレイないのか、なんだグローバルホークないのか、オスプレイ飛ばしてみせろこのやろー、もうだめだ、暑い、ビールだ、いや飲んでいる場合ではない、ぎょえーピザでっけー!

https://www.facebook.com/kyoko.miura.33/videos/1235036909941806/

突然、米原万里を思い出した件

突然、米原万里を思い出した件

昨日、田沢湖一周センチュリーランだった。前泊して準備していたのだが、スタート直前、突然S先生の前タイヤが、出走のピストル音かと思うほど派手な音をたててバーストした。
予備チューブと取り換えたが、タイヤを廻した途端、またバーストした。(タイヤが割れたところからチューブがはみ出し、もはや応急措置ではどうにもならないということが判明)
第一バイオリンの弦が切れたのであるから、咄嗟に楽器リレーしなければ、と思ってわたしの前タイヤを譲った。
それで、急にサポートカーになったので、一挙にだらけて、田沢湖で遊び、角館で遊び、ちんたらと一緒に行ったチームの人の写真を撮ったりしていたのだが、スタートを手間取ったので遅れたアイボウが、その後なかなか力走し7番手で潟野の分岐に現れたのを「がんばれえ~~!」と激励し、見送り、後ろ姿を見て愕然となった。
自転車選手というのは、最もよく目立つのは尻なのだ。プロの選手も、尻(腰の位置)に、でかでかとスポンサー名を入れている。胸は、優勝して両手を上げたときじゃないと見えないし、背中も、レース中はそれほど映らない。尻なのだ。尻、尻。
そして、自転車というのは、太ももと尻が異様に発達するスポーツで、自転車レースをよく見る人の多くは、選手の顔ではなくて尻を見ているだろうとわたしは思う。
そして、話はそのアイボウの尻なのだが、2ヶ月の欧州ツーリングでウエアがすっかり擦り切れて、薄くなってしまっていた。自転車に乗って前傾したところを見ていないので、気がつかなかった。しかも、なんというか、♡型に擦り切れて、♡型に躍動する筋肉が丸見え。これはこういうデザインなのか?と思うほど、尻の形にくっきりと擦り切れ。。。。
非常に、やばい状態なのだが、本人は全然気がついていなかった。

そこで、わたしは突然、米原万里のエッセイで、謹厳実直、威厳のかたまりのようなロシアの陸軍大臣の通訳をしたとき、その大臣の名前が「シリミエタ同志」だと分かった途端、笑ってしまって通訳不能に陥った、と書いていた一説を思い出したのだった。

熱中症で救急搬送されてしまった話

熱中症で救急搬送されてしまった話

日本バイシクルクラシック矢島カップは、日本3大ヒルクライム大会のひとつで、1000人以上の参加者がある。矢島の駅の裏にある公園にキャンプ村ができ、花火があがり、翌朝1000人も鳥海山にクライムする。
我がアイボーは、もう10年以上連続出場しているので、わたしにとって矢島キャンプは、もう年中行事なのだ。

一昨日と昨日、毎年楽しみにしている矢島キャンプ、ヒルクライムだったのだが、わたしはなんと、熱中症で救急搬送されてしまった。
朝、必ず水を飲んでコーヒーを飲むというのをやらなかったとか、昼飯を抜いたとか、夕方、なんか体調悪いなと思いながら、今、お水を飲んだらビールがまずくなると思って飲まなかったのだとか、飲み始めてからビールも水分だとか思ってくーくー飲んでたとかいう話は恥ずかしいので書かないが、眠ったのか気絶したのか自分でわからない、まずい、吐きたい、と思って立ち上がり、途中、何度か転びながらトイレに行ったあたりまでははっきり覚えているが、猛烈な嘔吐と下痢で立てなくなったあたりからわからない。吐く、と思って、吐瀉物を散らかさないように、下足棚の袋をどうやって取ったのか記憶がない。

Tさんが探しに来てくれて、「きょうこさん、だいじょうぶ?」と呼びかけられて、トイレの扉は、自分で開けた記憶がある。「きょうこさん、救急車呼ぼうか?」と聞かれ、(Tさんは、ご自身でも熱中症になったことがあり、ここまできたら病院に行かないと、夜中じゅう吐くだけだと判断がついたそうである)ぴーぷー音を鳴らさないで来てもらえないか頼んでくれと言った記憶がある。ぶったまげているアイボーに、明日がんばってねとか言った記憶がある。救急車の中で、わたしとの関係を書類に書かされたTさんが「友人です」とか言っているのを聞いて、心の友と書いてくれと言った記憶がある。消防隊員の人に、税金をこんなことに使わせて申しわけないとか言った記憶がある。

そして救急車は、24kmも離れた由利本庄市まで行ってしまった。救急隊員の人が、由利本庄の病院に行くとわたしに言ったらしいが記憶にない。人の話を聞いてないのに、すみませんご迷惑をおかけして、を連発し、Tさんに、もう大丈夫だから安心しておとなしく寝るよう諭される。救急隊員の人が、意識あるとか生命反応がどうだとか騒いでいて、わたしは全然大丈夫で、恥ずかしくて死にそうだ、と考えている。救急車はえらく揺れる。こんなに揺れるのでは、脳出血で運ばれたらおしまいだと考えた記憶がある。齢51にして、人生初の救急車なので、もっとなかの様子を見たいなあと思いながら気絶。

ERに搬入されて、看護婦さんの止めるのも聞かず、トイレに行きたいと立ち上がり、トイレに入った途端、嘔吐と下痢で再び立てず。看護婦さんがドアの外から「タケナミさーん、大丈夫?大丈夫じゃないよね?」と言っているのが聞こえた記憶あり。「タケウチさん、大丈夫ですか?」と呼びかけられたとき、タケウチではありませんが、わたしのことでしょうか?と応答した記憶あり。リンゲル液の点滴が始まったら寝てしまった。若い医師が、胃腸炎だとか説明していたそうだが、あまり記憶なし。人の話は聞かないくせに、一緒に来てくれた人に毛布を貸してあげてと言った記憶あり。

そしてその若い医者が、本当は2つか3つ点滴した方がいいと思うが、そうするなら入院した方がいいというので、着の身着のままで由利本庄になんて置いて行かれたらどうするば、と思って、ひとつでいいと返答。真夜中に放免される。
Tさんは、キャンプに戻るのでは大変だというのでホテルを探してくれたそうなのだが、真夜中過ぎて当日の予約ができるホテルはなかった(それはそうだ)そうである。わたしは、難民は皆テントに戻るしかないのだ、わたしもキャンプに帰ると言った記憶が、うろうろなれど残っている。由利本庄から矢島までタクシーに乗ったら1万円もかかった。タクシー代を払ったかどうか記憶がなくなり、翌日、Tさんに、わたしタクシー代を払いましたでしょうかとおそるおそる聞いてしまった。タクシーを降りたら満天の星空だった。天の川がくっきりと見え、星がひとつひとつ数えられそうだった。本当に美しかった。「大草原の小さな家」で、大きな損失には小さな得がつきものなのさ、とローラの父が話す場面があったが、突然それを思い出した。

翌朝、わたしとTさんが隣のテントから這い出したら、我々は病院にいるものだと思っていたアイボーとM先生がぶったまげていた。

花岡平和記念館に行ってきた

花岡平和記念館に行ってきた

 弘前から40キロほど南下すると、秋田県の県境を越えて大館市に至るのです。大館の市街地に入る手前、白沢のところを右に折れると花岡地区に入ります。大館市花岡には鉱山があって、太平洋戦争中に、強制連行され過酷な労働を強いられていた中国人が一斉蜂起した、いわゆる「花岡事件」がありました。
 敗戦後、この事件を忘れてはならないと考える大館の人々によって、亡くなった中国人の遺骨を掘って中国へ送還する運動や慰霊式、碑の建立等が行われています。花岡平和記念館も、全国の賛同者からの寄付を基に建てられたのだそうで、「加害した地に被害者の記念館が立てられているのは世界に他にない、アウシュビッツを生き延びた人はアウシュビッツに行こうとしないが、ここには、生き延びて本国へ帰った方やご遺族が訪ねてくれるのです」と、案内をしてくださった社民党の秋田県議、石田寛さんが話しておられました。

 亡くなった中国人419人の名前は、全てわかっているのです。「中国殉難烈士慰霊之碑」の裏に全員の名前が彫られていて、毎年6月30日に行われる記念式に大館を訪れた遺族の方が、碑に父の名前を探し当てて号泣するという場面が毎年みられるということなのです。終戦間近の混乱のさなか、どうして全員の名前がわかるのか、と石田さんに質問したら「それは、彼らは、閣議決定によって1人35円で買われたからです」と答えられました。奴隷は財産なので、厳しく管理されているのです。そのことにより全員の名前と生年没年がわかって、今に伝えられているということに、本当にやりきれない思いがしました。
 また、蜂起の日が6月30日なのか7月1日なのか説が分かれているということでありましたが、館内の説明に、虜囚に親切な看守がいて彼が当番でない日を狙ったと書かれてあったことも心に残りました。加害する側にいなければならない立場の中でも、人間的であろうと努力をしている人がいて、虐げられる側でもそれがわかって、彼に責任が及ばないよう配慮をしているのです。
 また、裁判が闘われ和解となった折、加害する側だった鹿島組が、今後人の目に触れることもあるだろうことを見越して供養塔を改修したのだそうですが、終戦直後、GHQの命令で掘り出した遺体を埋葬した際建てられ、風雪の中碑文も読めないほど傷んでいた小さな供養塔も保存するよう求めた遺族の思いをくんで、古い供養塔も新しい供養塔の後ろに残されているということでした。供養塔が2基前後に並んでいるのはそういう意味があるのです。

 館内の展示品で驚いたのは、村の人の証言や訪れた遺族の言葉等を、毎年毎年、文字起こしして編まれた文集が発行されていたことです。これは、花岡事件の生きた記録として、本当に貴重なものと思います。

 花岡に住んで、ずっとこの活動に携わってきた方が、「この事件は、鹿島が加害したのだから鹿島事件と呼ばれるべきだ、なぜ花岡の名が冠されているのか」と、胸中を話しておられたそうですが、遺族の方が「我々は、なぜ再びここに来たのか、それは花岡の人たちが優しいからだ」と語ったというお話を聞き、救われる思いがしました。
いずれの問題でも同じことですが、権力者の手先となり目先の利益のために加害する者も人間ですが、救おうとする者も忘れまいとする者も人間の中にいるし、恨みを越え国を越えて結び合おうということもできるのもまた人間だということが、花岡平和記念館では、それが形になってみえるので、本当に励まされるという大変得難い実感ができる、良いところです。
皆さん、機会をみて是非訪ねてください。4月~10月、金土日月の10:00~15:00までしか開館していませんが、事前に相談すれば可能な限り対応してくださるようです。

矢田津世子文学記念館に行ってきた

矢田津世子文学記念館に行ってきた

共産党の文化人(文学?)後援会という組織があって、わたしはいつ入会したのか全然思い出せないのだが、現実には入っていて、そこから年度変わりや選挙等の節目に「転形期」という機関紙が送られてくる。
一番後ろのページに、「探訪プロレタリア文学」というシリーズがあって、このたびの前号なので、多分143号、だと思うのだが、「矢田津世子文学館に行ってきました」という手記が掲載されていて、それを読んで矢田津世子が秋田の人だったのだということを初めて知った。とても懐かしく、近日、きっと行ってみようと思っていたものが、今日実現した。

本当のことをいうと、わたしは矢田津世子本人のフアンだったのではなくて、高校の頃なのだが坂口安吾にめちゃめちゃに傾倒していたときがあって、書簡の果てまで手に入るものは全部読んだというほど好きだったので、安吾の恋人、ということでこの人の名前を憶えていたのだ。

そもそも、どうして矢田津世子が共産党の後援会のニュースになんか載っているのだろう?と不思議だったのだが、結核で早世したこの人が健康を損ねるきっかけとなったのが共産党に資金カンパして検挙されたことだったとわかった。
また、見た限り、矢田津世子さんは、新進気鋭の立派な作家だったので、とても「安吾の恋人」という枠に収まってしまうような感じでもなかった。

ついでに、青空文庫で久しぶりに「堕落論」を読み返し、なんでわたしは、これに、あんなに傾倒したのか、もはや全然わからんなとつい思ってしまったのは、成長したのか老化したのか、どっちなのだかわからない。
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